史跡各所の歴史・みどころをご案内。 マップの番号ごとに解説をご用意しております。
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。
廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある。
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門ともよばれる。
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模しており、貞享三年(1686)の造営である。
創始者、池田光政を祀る神社。
閑谷学校の創始者、池田光政を祀っています。
もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠」と呼ばれていました。
本殿内には御神体として光政の座像が安置されています。
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。
孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。
奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。
金色に輝く、京都の名工による金銅像。
この孔子像は、朱子学者・中村惕斎に委託して、京都の名工が鋳造した「金銅像」です。
孔子像は椅子に腰掛けたもので高さは90cm、朱塗りの八角形の聖龕(せいがん)に安置されています。
毎年1月4日の「読初の儀」、10月第4土曜日の「釈菜」など年に数日のみ特別公開されています。
孔子を祀る釈奠(せきてん)に供える「いけにえ」の生き物をつなぐ石柱である。
閑谷学校では蔬菜を中心とした釈菜(せきさい)を行うので、形式的に配置しているだけである。
四季を通して情緒豊かな「学問の木」。
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。
紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができます。
「学問の殿堂」、旧閑谷学校を代表する国宝。
講堂は入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っています。
創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられました。
内部は十本の欅の丸柱で支えた内室と、その四方を囲む入側とで成されています。
また、拭き漆の床は生徒たちによってよく磨かれており、火灯窓から入る光をやわらかく反射させています。
藩主が臨学の際に使用する、御成の間。
屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られています。
現存する建造物の中では、最も古い姿を残しています。
農民たちも学んだ、教室として使われた施設。
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。
教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室。
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれており、火の使用に厳重な注意がはらわれていました。
閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余が所蔵されていた。
漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む四層の戸が設けられている。
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。
日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門であった。
この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。
300年を経て今も整然たる姿をたたえる。
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧閑谷学校に独特の景観を生み出しています。
明治38年の姿が残る、校舎を利用した資料館。
明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設されました。
現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。
西薇山(本名毅一)に組織された閑谷保黌会の中心となって閑谷学校の再興をはかり、同十七年教頭(翌年黌長)として家族とともに閑谷に移り住み、その半生を閑谷黌教育にささげた。
この顕彰碑は、薇山の教えを慕う教え子たちによって大正十四年に建てられた。
守護の願いが込められた、神々しい雰囲気の椿たち。
椿山には約400本近いヤブツバキが植えられています。
奥には池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」もあります。
閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政の髪、髭、爪、歯を納めた供養塚である。
中国上代の諸候の学校である頖宮(はんきゅう)の制に擬してつくられたものである。
半円形の池がつくられるのが普通であるが、閑谷学校の場合は、幅七M、長さ八十Mを超える長方形である。
石橋は国の重要文化財に指定されている。
池田光政の命を受けて閑谷学校を創建した津田永忠の屋敷跡である。
永忠は光政没後も綱政に郡代として登用され閑谷学校を現存する姿に完成させるとともに各地で多くの土木事業を完成させた。
晩年は現在の和気町奴久谷に隠棲した。
生徒から儒者、文人までが茶を楽しんだ憩いの場。
文化10年(1813)に来客の接待や教職員・生徒の憩いの茶室として建てられました。
頼山陽や菅茶山など儒者や文人を迎え親交を結ぶ場としても使用されました。